動物園を作った男、安藤政次郎



けもフレとは直接の関係はないのですが、けもフレともコラボしたことのある動物園「のんほいパーク(豊橋総合動植物公園)」の創設者である安藤政次郎氏について、今回は特集していきたいと思います。

【新聞小政、横浜を翔ける】

安藤政次郎氏は1855年(安政2年)に愛知県豊橋市紺屋町(現大手町)にて生まれました。生まれた町名が示すように、生家は紺屋(染物屋)だったそうです。
22歳の時に静岡に出て新聞の売り子をしていましたが、3年程してから横浜に上京し、そこで上記の引用の通り「新聞小政(若しくは安藤小政)」と名を改めました。「新聞小政」の名前の由来は本人の背が低かったからだとか、尊敬する清水次郎長の子分の大政小政から取ったとか、諸説ありますが定かではありません。
上記の引用の通りイケメンでファッションセンスもあり、何より人の心を掴むのが抜群に上手かった新聞小政は、たちまち横浜で人気の新聞配達員になります。現代の感覚だと新聞配達員が人気になるというのは不思議な感じがしますが、当時の人達にとって新聞配達員というのは役者というかニュースキャスターのような存在だったのではないかと自分は推測しています。その頃の新聞配達員はただ新聞を配るだけでなく、その内容を高らかに口上し、新聞とはこういうものだとPRしながら配達していたそうです。

こんな感じで↓

「さてみなみなさま、ごひいきをこうむり売り広めたる絵入り新聞、開化進歩の時代なれば、忠孝節義(ちゅうこうせつぎ)めずらしい話が山々。日ごとの配達、またたまさかにはあしき風説(ふうせつ)、醜態事(しゅうたいごと)のうわさなど、いかに人目をつつむとも、天知る地知ることなれば、ぬしはもとより人も知る……」    


東海日日新聞(一九七〇年八月二八日~九月七日連載)『豊橋動物園由来記』豊橋市図書館編.


テレビはおろかラジオすらない明治では、新聞と言うのは間違いなく当時最先端の情報メディアだったわけで。そんな珍しいものをカッコイイ服を着たイケメンが威勢の良い口上と共に配るわけですから、当時の人達からさぞや注目されたのだろうと思います。天気予報を見るとき、情報そっちのけでお天気お姉さんを見ちゃうような感じかなと。

そしてその人気ぶりは凄まじく、何とこの「新聞小政」、舞台化します。

上記にある通り、五代目尾上菊五郎という有名な歌舞伎役者に頼んで、「新聞小政」を主題とした芝居を演じてもらったとのことです。今でいう一流タレントを呼んでPRをしたわけですね。
この結果新聞小政の人気は更に高まり、その名声は東京の花柳界にまで届いたとのこと。果ては新聞小政の似顔絵まで描かれる程だったそうです。

↑この写真中央の浮世絵が、「京浜横浜似顔絵図」の、五代目尾上菊五郎扮する新聞小政。

【帰郷、そして安藤動物園創設】

人気絶頂だった「新聞小政」ですが、33歳の時に新聞配達員を辞めて豊橋に帰郷します。理由は良く分からないのですが、その頃豊橋でも歩兵第十八連隊が設置され、毛利新田(現神野新田)の開発も進むなど活気付いていたので、それに目を付けたのかもしれません。
豊橋に帰郷した新聞小政こと安藤政次郎氏は、養豚業を開きます。まだ出来たばかりで食糧事情が芳しくない歩兵十八連隊に豚肉を卸し、軍とのパイプを作る為です。軍から残飯を貰ってそれを豚の餌にし、そこで育てた豚肉を軍に納めるという、何とも要領の良い御用商人となります。
養豚業以外でも静岡の方で鉱山経営もやっていたようで、そうした活動から動物園の資金を集めていったようです。起業家としても優秀な方だったわけですね。

この養豚業を営む傍ら、動物好きだった安藤氏は豚舎の一角でサルやウサギや珍しい鳥類も飼育していました。そういった動物は珍しく、近所の人達が鼻をつまみながら見物に来ていたそうです。(余談ですが、田舎の人達程、動物に触れる機会が少ないというのは現代でもあるそうですね。南米アマゾンの森林伐採が深刻になってる理由の一つに、自然や動物に触れる機会が少なくその大切さを十分に理解していないからというのを聞いたことがあります。)
また丁度安藤氏が動物園を始めるより前の明治23年、名古屋の今泉七五郎という動物商の方が「浪越教育動植物苑」を開きました(ちなみにこの今泉七五郎氏も安藤氏に勝るとも劣らない程に面白く奔放な方だったらしいです。機会があればこの方のことも特集したいと思います。この浪越教育動植物苑が、現在の東山動物園の基になっていきます。)世相に聡い安藤氏はこのことを聞いて動物園経営を思い立ったのかもしれません。

こうした様々な切っ掛けを経て、安藤氏は明治32年(1899年)、豊橋駅前に『私立』動物園である「安藤動物園」を創設します。当時豊橋駅前は周囲がほとんど畑だったので、土地を安く買い上げることが出来たのかもしれません。また豊橋の隣にある豊川市には豊川稲荷という大きな神社があり、その参拝からの帰りに寄ることを狙って駅前に建てたとのこと。その立地の良さも相まって、「安藤動物園」は東海地方でも名が知られるようになります。

上記の引用にある通り、自らウサギの着ぐるみを着て客寄せを行った他、ツル等の動物に万歳等の芸をさせたり、クマと客を力比べさせる(!)ということもやっていたそうです(流石にクマとの力比べは誰にでもやらせたわけではありませんでしたが)。
また動物園外でも派手なパフォーマンスで宣伝に努めていました。「市内にある大きな池に主がいる。俺がそいつを捕まえてやる」と言うことで、当時は珍しかった潜水服を購入し、それを着て自ら池に潜って主探しをしたとか(結局見つからなかったそうですが)。
この辺けもフレとも積極的にコラボして集客を狙う現のんほいパークにも通じるところがありますよね。もし安藤氏が現代に生きておられたら、まず間違いなくけもフレにも注目されていたでしょうし。
彼の精神は現代にも受け継がれているんだなと感じます。

【安藤政次郎氏の人柄】

安藤氏は多分に親分肌で、正に「義を見てせざるは勇無きなり」を体現したような人物でした。その為、漫画みたいなエピソードが幾つか残っています。

・静岡では祭見物中に花火で負傷した少女を救出したり、横浜では近所の火事の消火活動に協力したりして、いずれも県から表彰された。
・豊橋にも派生した米騒動の焼き討ちの際、愛用の鉄兜を着用して火の中に跳び込んで消火活動を行い、市や県からも表彰される程の活躍をした。
・歩兵18連隊の大佐から目を掛けられ、「清正」の号を与えられ、その後は「安藤清正」とも名乗っていた。
・兵隊の中でも顔が利いた為、兵隊の諍いも安藤氏の一声で収まった。

ntc……

改めて、安藤氏が大変に面白い方だったということが窺えます。

【動物園を守り抜いて】

このように安藤氏は数々のパフォーマンス等で動物園経営に尽力し、昭和3年には昭和天皇の即位式に際して社会教育の功労を表彰されます。社会的には栄誉を受けていましたが、晩年になると施設の老朽化に伴って維持費等がかさみ、経営は行き詰りを見せていました。現代でも動物園はほとんどが公立なのに、この時代に動物園を個人で経営するのは並大抵のことではなかっただろうと思います。先述の様々なパフォーマンスも、こうした苦しい経営を助ける為の苦肉の策だったのだろうと……(目立ちたがりな本人の性格もあったのでしょうが)

昭和5年(1930年)、安藤氏は安藤動物園を豊橋市に寄贈するよう遺言を遺し病没されました。76歳でした。翌昭和6年に、安藤氏の遺言通りに遺族は豊橋市に動物園を寄贈し、安藤動物園は「豊橋市立動物園」になったわけです。

この後豊橋市立動物園は戦争の影響で一旦閉園しますが、戦後に住民の要望から復活を果たします。その後も移転と増設を繰り返し、現在ののんほいパークへと繋がっていくわけです。

↑のんほいパークのHPの沿革のページにも、安藤動物園のことは触れられています。

もしこの記事をご覧になっている方がのんほいパークに立ち寄られる際は、安藤氏の石碑を探してみるのをお勧めします。歴史の重みを感じながら、動物園を見て回るというのもとても面白いのではないかと思います。
また豊橋駅前にも動物園跡の記念碑が置かれているので、そちらもチェックしてみてもいいかもしれません(知らなければ気付かない程目立たない者ですが)。

〈参考文献〉

金子功(一九八三)『安藤動物園物語』.
東海日日新聞(一九七〇年八月二八日~九月七日連載)『豊橋動物園由来記』豊橋市図書館編.
豊橋総合動植物公園イベント開催実行委員会.文:水谷眞理(二〇〇四)『動物園ものがたり』東雲座カンパニー編.これから出版.
豊橋市(一九八三)『豊橋市史 第三巻』豊橋市史編集委員会編
「館報「開港のひろば」新聞小政と動物園」http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/087/087_05.html.
「放蕩地理学:異能の人たち」
http://syamolamp-syamolamp.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html.

〈ツイッター引用〉
NAOCKEY✝音楽と聖書 様(@Anpan440Hz)
昔の風俗をつぶやくよ  (@LfXAMDg4PE50i9e)
かねたく様 (@hirakuk)
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CUZ@無責任の擬人化 様(@cuzkimono) 
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